日本初の近代競馬が横浜居留の外国人たちの声により始められる
しかし元村、新田、関内、堤塘などはいわゆる仮の馬場であり
都市環境の整備改良の為に競馬場地が適用され、それぞれ短期の開催で終わっていた
外国人居留民たちは競馬もスポーツの一環で心身の健康のためとの考えもあり
競馬場と乗馬用遊歩道の提供要求も英仏公使らを通じ幕府に出し
競馬場問題が、外交案件のひとつともなっていた
幕府の費用負担で根岸村の競馬場建設を実行し
1867(慶3)年8月:根岸競馬場の工事が始まり、同年12月に竣工した
日本史上始めての国(幕府)による
1周1マイル、コースに芝をひき詰めた近代的な本格的専用競馬場が建設された
(走路幅:28.2m、一周 1,764m)
建設費用は幕府が負担し、競馬場は居留民を代表する競馬に関する委員会に委託するという条件のもと
根岸新競馬場建設に合わせて、居留民の間で「ヨコハマ・レース・クラブ」が結成された
当時の競馬は現在とは異なり、乗馬になれた紳士が早さを競い合い
相互間の賭金は公然行なわれるし、風景はよいし、競馬は彼等の飯より好きなものであつたから
馬匹改良云々には何の関係もなく娯楽として流行っていった
1875(明8)年:社交の目的で根岸競馬場に日本人が出入り出来るようになる
1876(明9)年:内部紛争により「横浜レース倶楽部」は「横浜レース倶楽部」と「横浜レースアソシエーション」の2団体に分裂
以降同一馬場を使用して交互に競馬を開催する
1878(明治11)年:再び「横浜ジョッキー倶楽部」と改称して合併
1880(明13)年:それまで外国人のみで構成されていた会員に日本人の加入も認め、名称も「日本レース倶楽部」と改称される
天皇賞の始原である「THE MIKADO’S VASE RACE」:明治天皇からの下賜品を賞品とする競走が開催される
1888(明21)年:日本レース・クラブが日本初の馬券(1枚1ドル)を発売する
居留地競馬は治外法権に基づいていたため、明治政府による賭博禁止の影響を受けなかった
1905(明治38)年:明治天皇から下賜された「御賞杯」を懸けて競った「エンペラーズカップ」が天皇賞の前身
<大正15年・春季・日本レースクラブ主催・勝馬投票証>
1929(昭和4)年4月:新スタンド(馬見所)着工、翌年竣工
1937(昭和12)年:全国11の競馬倶楽部が統合され日本競馬會が誕生
「日本レース倶楽部」も吸収され
「日本競馬會・横浜競馬場」と呼ばれるようになり根岸競馬場という名前は使われなくなった
<昭和15年・春季・日本競馬會主催・複勝式勝馬投票券>
1939(昭和14)年:英2000ギニーにあたる横浜農林省賞典四歳呼馬(後の皐月賞)の第1回が開催される
*現在の皐月賞は中山競馬場(距離2000m)であるが、当時の横浜競馬場の本馬場は1632mでありレースは1850mで争われた
1941(昭和16)年:この横浜競馬場で日本初のクラッシック3冠馬が誕生する
馬名:セントライト(父:ダイオライト、母:フリツパンシー)騎手:小西 嘉蔵
第3回 横浜農林省賞典四歳呼馬(皐月賞)制覇
第10回 東京優駿競走(ダービー)制覇
第4回 京都農林省賞典四歳呼馬(菊花賞)制覇
日中戦争が長引き
1942(昭和17)年10月18日:横浜競馬場での競馬開催は終了される
1943(昭和18)年:横浜競馬場および観戦スタンド等の諸施設は海軍に接収される
(理由:競馬場から横須賀軍港が一望できる為、海軍の通信所として適所である)
1969(昭和44)年11月:旧競馬場跡地が返還され横浜市の「根岸森林公園」と一部「中央競馬・馬の博物館」となる
神奈川県横浜市中区根岸台
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